4月18日、東京有明ビッグサイトで開催中の東京国際ブックフェアに、ノンフィクション作家の佐野眞一さんが来場され、ボイジャーブースで、この日発売開始となった電子本、柴田秀利『戦後マスコミ回遊記』について約1時間にわたってお話しされました。
これは、その日の内容を採録したものです。



――司会役のボイジャー萩野正昭が口火を切る。
皆さんようこそおいでくださいました。ノンフィクション作家の佐野眞一さんが私たちのブースへきてくださいました。きょうはきっと貴重なお話しをお聞かせいただけることと思います。このような大変喧噪なところで、お聞き苦しいとは思いますが、このノイズに負けないでやっていこうと思います。どうかしばしお時間をくださいますようお願いいたします。

さて皆さん、お話しを始める前にこちらの写真を見て欲しいと思います。

驚いてしまうのほどの群衆です、これは騒乱事件の写真じゃありません、この群衆は一台のテレビを見ているのです。テレビ放送が始まった頃、街頭テレビの光景です。
場所は、1953(昭和28)年静岡公会堂というメモがあります。

これは日比谷公園のようなんです。なぜかというとバックに「東京モーターショー」という看板が見えています。いま日本でもっとも規模の大きいショーになった「モーターショー」は、1954(昭和29)年には日比谷公園で行われていたのです。
これは公園内にある日比谷公会堂の階段だと思いますがここにテレビがあります。
(階段の小さなテレビセットを指す)
もう一枚あります。これは日劇前の写真です。


このような群衆の中の一人に、私の父もいたのです、兄もいました、そしてまだ子どもだった私も紛れ込んでいたのです。
テレビとは何だったのか、どうのようにしてテレビは私たちの前に現れてきたのか……?
柴田秀利著『戦後マスコミ回遊記』を電子出版する大きなきっかけは、このような問いの中から生まれてきました。
そのきっかけを与えた街頭テレビの写真です。これらの写真はすべて柴田秀利さんのアルバムの中から出してきたものです。奥様の柴田泰子さんのご協力でここにご覧いただいているものです。
それでは、正力松太郎『巨怪伝』の作者であり、民俗学者宮本常一の『旅する巨人』の作者である、ノンフィクション作家、佐野眞一さんからお話しをうかがうことにいたしましょう。

――<佐野眞一>
あのー、なぜこの席に私ががいるかというと、ボイジャーの萩野くんと私は大学時代の友人だということだけじゃありません。
柴田秀利さんと私は、実はとても深く知り合った関係ということで、私はいまここに来ているのだと思います。中央公論から出ました文庫、『戦後マスコミ回遊記』の解説は私が書きました。で、冒頭紹介にありましたとおり正力松太郎という人間を、1994年に文藝春秋から『巨怪伝』としてまとめました。大変ぶあつい、電話帳ほどある本です。そのときに、大変重要なキーマン、それが柴田秀利さん、という人だったんです。
たぶん、現存のジャーナリストの中で生前の柴田秀利さんにあったのは私一人だと思います。
たとえば、渡辺恒雄のことを書いた魚住昭氏の『メディアと権力』という本がありますけれど、そこにも柴田秀利らしき人が書かれています。私もそれを読みました、しかし、生前の柴田秀利さんにお会いになっていないから、非常にゆがんだ人間として描かれています。奥さんとしては大変残念だと思うんです。
私は生前の柴田さんにお会いして、驚くべき話を山ほど聞きました。それからそれ以上に、柴田秀利さんの個人事務所、芝浦のほうだったと思いますが、初めてお会いしたときにですね、やはりただならぬ人格といいますか、それを感じたんです。それ以来、柴田さんのところへ通って、いろんな話、みなさまがまったく信じられない、テレビとはどういうふうに導入されてきたか、これを聞くとまさに大事件であったわけですね、テレビの出現というのは一大イベントだった……で、その裏には非常に秘められた歴史があるわけです。
私は、「正力松太郎と影武者たちの一世紀」の副題で『巨怪伝』を書いたわけですけれど、われわれわは、いまだに、良くも悪くも、正力がつくったメディアの権力の中にいる、とよく言うんです。
それはたとえていえばこういうことです。正力という人はその後初代の原子力大臣となります。つまり原子力開発を押しすすめます。しかしこの裏にも、実は立て役者として柴田さんがいたんです。で、われわれの生活では、この会場にはいまこれだけの電気がついている、大半は原発でつくった電気を使っているわけですね、その電力を使ってテレビを見、例えば昨日のサッカーなどは大変な視聴率を稼いだでしょうが、そのテレビを見、そして一喜一憂し又翌日新聞でその試合の模様を確認する、という行動の中にわれわれがまだいるわけですね。
つまり正力松太郎および、その本当の立て役者であるところの柴田秀利という人物が仕掛けたメディアの構造の渦中に、いまだわれわれがいるということです。そう私はこの解説に書いたと思います。
『戦後マスコミ回遊記』はすごい本です。大物中の大物、本当に超大物、例えば吉田茂、あるいは最近人気の白洲正子さんのご亭主、外務官僚だった白洲次郎さんなんかは、ほとんど通行人扱いで書いてあります。そういう錚々たる人物が総登場するドラマなんです。白洲次郎とも親交があった、あるいは北大路魯山人とも親交があった、そういう関係を別に自慢たらしくではなく書いてある。
またいま、占領軍はこの柴田秀利を一面から言えば、非常に武器になる……この男はできる、やれる、と思った。これは一見いやらしく聞こえるかもしれないが、アメリカ人というのは非常にフランクな面を持っています。つまりこいつはいけると思ったらどんどんやらせるという姿勢です。
柴田秀利は、戦後すぐというこの時代、まだ30を越えるか越えないかの年齢です。非常に若い。柴田秀利のことを昭和の坂本龍馬だと言った人もいましたが、そのころ、テレビの幕開け、原子力時代の平和利用といった仕事の量からいって、相当な量の仕事をこなした人だと総括できるのではないかと思います。
ちょっと話は外れますけれど、きょうの基調講演の中で、私は13の時に『忘れられた日本人』を読んで感動したという話をしました。それはどういうことかもう少しいうと、ぼくが13の時というと安保闘争、昭和35年、1960年でした。世の中物情騒然としている、政治の季節。それからもう一方では、同時に高度経済成長の時代が始まっている、家電製品がどんどん入ってくる、テレビがはいってくる、電気冷蔵庫、洗濯機が入ってくる、つまり政治と経済が一緒にやってきた季節だったわけですね、まあ世の中泡立つような時代だった。
そうした泡立つ時代に背を向けて四国の山奥でたった一人で盲目の博労の話を聞き取っているオヤジがいる。あるいは対馬の海っぺりにいて、開拓漁民といいますが、一つの漁村を開いたじいさんの話に耳を傾けているオヤジがいる……この姿に私は感動しました。非常に孤独な背中、その姿に感動したんだと思います。
柴田秀利とは真反対にあった人だともいえます。その人つまり宮本常一に感動し、そしてまた私は真反対の柴田秀利にも感動します、つまり私は基調講演の中で、本が売れなくなってきているという時代の中で、本というものはまだまだ、それだけ大きなキャパシティーをもつものだということを訴えたかったのです。この幅の広さが読書の大きな醍醐味ではないか、ということが言いたかったわけです。そしてこの醍醐味を広げていく動きの存在無くして本の未来も無いだろうということです。その意味では電子出版もまた一つの動きとして力を蓄えていって欲しいと期待しています。
私はいま見た街頭テレビ、この写真を見るのは初めてです。もちろん街頭テレビは知っています、萩野くんもボクも同世代です。昭和29年といえば小学校へあがるかあがらないか、つまり物心がついた年で、いまこの写真を見るとですね、鳥打ち帽をかぶったオッさんとかいましたけれど、われわれの周りにはああいうオジさんたちがいっぱいいたナ、懐かしい日本人がいるナ、僕らのオジさんたちだなア、という気持ちを大変強くもちます。
きょう私は初めてこの写真を見るわけですが、私は電子出版について、その機能について専門家じゃないからよく分からないことも多いですけれど、例えば百万言をついやすよりも、ここにある風景、さっき皆さんも見た写真、日劇前の街頭テレビの人、人、有楽座というあの文字、シミキンというあの文字、そこから喚起されるものは僕らの世代にとっては莫大なものがあります。
シミキンの生の舞台というのを実は私は、見たことがあるんですネ、そうだシミズキンイチというのがいたな、という非常な喚起力、こういうものを一瞬にして引っ張り出し、見る者、読む者に訴えかける力というのは、私は電子出版というものの中に秘められているんじゃないかとまず思いますね。

――<萩野正昭>
佐野さんここでちょっと本の中味について紹介させていただきたいんです。
もう本日からインターネットを通してご覧いただけるようになっています。ボイジャーの理想書店というネット上の本屋さんへいくと、ずらっと『戦後マスコミ回遊記』がならんでいます。えー第三部の「テレビ時代の夜明け」というのを開いてみましょう。一冊立ち読みできるようになっています。勿論時間の制限はかかっているんですよ。立ち読みだけで買ってもらえないのじゃ困ってしまいますから……
目次の中から、「アメリカ方式525本」という章に注目しようと思います。テレビには大きく3つの方式があるんです、アメリカ方式とヨーロッパ方式そして、少し後になりますが、主にソ連を初めとする社会主義諸国が採っていたSECAMという方式……日本がアメリカ方式に決まるということは、多分に政治的な意味合いも含まれていたわけです。
そうすると、ここに、こんなことが書かれています。
「何の資料も持たなかった私のところに、三人の客人の行動記録を写し、記念に贈呈した、立派なアルバムの二冊だけが残っている。金張りの西陣で表紙を飾った、見事な贈り物の複製である……
とあります。そうするとここにそのアルバムの写真がありますね。写真を押すと拡大します。
「……この時起ち上がったホールスウセンの通訳として写っているのが、後に国連大使となった加瀬俊一氏である……」
というところもあります。この人がアメリカ代表のホールスウセン、こちらがその加瀬俊一ですね。
「この時一同がアッと驚いたことは、壁一面に張りめぐらされた、全日本をカバーするネット・ワーク計画と、多重通信機能が誰にも分かるように図解された、目を見張る革新的計画案が、ズラッと並べられていたことだった……」
これらの写真は、柴田秀利さんの奥様である柴田泰子さん、きょうこちらへもおいでくださっていますが、全部私に貸してくださったんです。これらの写真を丹念に見ていき、本文に一つ一つ組み込んでいく、そのことによって、いままでの本にいくつかの発展型が生まれた、本文と写真による対話が生まれてきたということじゃないかと思います。

――<佐野眞一>
私もこの写真を柴田泰子さんに見せていただいた記憶があります。大変懐かしい思いがしています。
皆さん、テレビの尚早期についてはずいぶん本が書かれているんです。しかし私から言わせれば、すべてニセ物です。真実はここにしかない、と考えてください。ここにはですね、国際政治の謀略とでも言ってもいいでしょう、いろんなものが渦巻いた中に、日本のテレビが幕開けしたということが事実として書かれているんです。

ここにいます弁護士のホールスウセン、それにここに写っているホールステッドという技術者……みんな大変な大物をアメリカは送り込んできたわけです。何ということもない研究発表のような光景ですけれど、よく見るとここには明確な極東の地図がおかれていて、日本を含んで朝鮮半島、詳細にカバーする反共通信網の青写真が描かれているとうかがうことができるわけです。アメリカが意図する入念に準備された計画ということだったんです。ははーん、ここに正力が写っていますね、ほら。

――<萩野正昭>
佐野さんは中公文庫の『戦後マスコミ回遊記』の解説で、いま言われた総括的な柴田像を書かれています。いまのお話しを聞いていると、どうしてもここで少しお話しさせていただきたくなりました。その一部を読んでみましょう(と、文庫本の解説部分を読み上げる)。
「昭和25年6月、当時、NHKのニュース解説者だった柴田氏は、外電のなかからアメリカ上院議員のカール・ムント演説を発見した。これが、わが国へのテレビ導入の最初の契機となった。
カール・ムント演説の骨子は、世界反共政策のための全世界通信ネットワーク構想を早急につくる必要があるというもので、"ビジョン・オブ・アメリカ"と名づけられたこの構想実現の最適地として、第二次世界大戦敗戦国の日本とドイツをあげていた(略)
日本は東西冷戦構造のまっただなかに置かれ、占領下の鬱積したエネルギーは反米運動に転化しつつあった。
そこに、ムントの提唱する"ビジョン・オブ・アメリカ"構想がそのまま持ち込まれれば、日本人はそれに反発を覚え、かえって共産革命の悪夢が再現する恐れがある。これが、柴田氏がムント構想に懸念を感じた最大の理由だった。
だが、柴田氏にはムント構想を日本流にアレンジして導入する気宇壮大な青写真は描けても、それを実現するだけの資金的裏付けはなかった。そのとき柴田氏の頭に浮かんだのが、戦前の報知新聞時代、何度か顔を会わせたことがある正力松太郎だった。
日本へのテレビ導入という壮大なドラマは、いうなれば、作、演出をすべて柴田氏が行い、正力はその果実をひとり占めし、それを大宣伝して"現代日本のメディア王"という虚像に、さらなる鍍金をほどこす結末となった。」中公文庫『戦後マスコミ回遊記』佐野眞一の解説より

――<佐野眞一>
話は外れますが、ある取材でかつて日本の領土だった樺太の資料がないか北海道中を探しました。小樽に小樽高商、小樽商科大学というのがありますが、ここの地下倉庫に3日間こもって探しましたがありませんでした。ところがあったんです、余市というところに。りんごの産地です……ニッカウヰスキーでも有名なところですが、その余市の市川文庫というところに膨大な豊原(とよはら)の写真が見つかったんです。、膨大な豊原の写真、およびシスカという一番北端の町のトナカイから少数民族が閉じ込められた森から全部写している記録がありました。新発見だと思います。たとえば、これを電子出版化するとかですね、これはぼくは目に物見せるという仕事なると思うんですね。これぞ新しいんだと、これぞ我々が知られざる樺太、日本領有時代の樺太はこうだったんだという、まあ山ほど樺太についての文献というのは出てますけれど、一番大事なのは、一次情報ですね、そこにその人がいて、その人の目で撮った写真なんですね、それは本を抜くというか、本は私は最強のビークル(入れ物)だと思いますけれど、人が撮った写真というものも、それにアタッチメントする価値のあるものではないでしょうか。
宮本常一は10万点の写真を残しています。まもなくネット配信もはじまると聞いています。高度経済成長を迎えようとしていた日本の光景を丹念に、くまなく歩いた過程で写された写真、膨大な情報、膨大な記録、国家的事業にも匹敵する仕事だったと思います。
たとえば、宮本常一の10万点の写真、つまりこれをですね活用することによって、われわれはどういう事ができるか。宮本常一は日本の島という島、村という村を、全部歩きましたから、地球を4周した男です。行かなかったところはありません。それで膨大な写真を撮っています。高度成長前の日本が見事に定着されています、すべてが。ですから、例えば日本列島の白地図に宮本常一の足跡を赤インクで垂らしていくと、日本列島が真っ赤になるという有名な話があります。たとえば、われわれが日本列島の中から何が失われたか知りたいと思うときに、日本の白地図をCTスキャンをかけて、宮本常一の撮った1920年代の写真はこうでしたよ、1930 年代はこうですよ、1940年代はこうですよ、今はこうですよといったときに、なにかわれわれが大事な物を失った、そのありかがわかるわけですね。それが一つ。
 それからもう一つはですね、電子出版の可能性は、宮本常一が写した写真を見ることによって、あっ、この人見たことある、これがあのオジさんだった、といった場面が必ずでてくるはずです、それをインターネットで返してあげる。そうすると、新しい形の本が生まれる可能性もあると思うんです。まだそこまでは、技術的にいってないかもしれないが、オンデマンドというのは簡単にいうならば、注文で出版することです。たとえば、この章だけ欲しい、あるいはもっと言えば、ここをもっと読みたいというとき、そこを進化させていくようなですね、今度はこの次のところにつなげるという、自分だけの本、自分が知りたいだけの本というものも、未来に、そう時間がかからず出来ると思います。
それが新しいかたちの出版と読者との関係をつくっていくことになるでしょう。
まったく新しい関係がやっと始まった、端緒がやっと見えてきたという気がします。
本は20世紀最強のビークルカプセルだと私はさっきも申し上げました。モバイルも出来るし、簡便だし、情報量はたくさんあるし……しかし、それがやっぱり一つの歴史的な変遷の中で、大量生産、大量消費のシステム自体が、本だけじゃありません、すべてです、それが崩れていく、これは歴史的な必然なんです。残念だと思ってもしょうがないんです。そうなると、我々の知恵で新しいモバイル、新しいビーグルをつくっていくほかはないです。いろいろなツールが生まれていくことになるでしょう、まさにその中の一つである電子出版の動きもまた始まろうとしているんだと思います。ですからここでいま柴田秀利が電子出版として紹介されていることに、ちょっとした驚きと感慨を感じずにはいられません。柴田さんという人は、それに値する長い視野をいまでも伸ばし続けている人だナ、と思います。

 私は、はじめて柴田秀俊と会ったとき、この人は総てを知っているすごい人だと思いました。私流にいえば、アドレナリンが出た。この人は本当の秘話を知っている、一読売の内部ことだけではなく、日本のメディアの全体の一番底流をなす一番重要なことをこの人は語ってくれたなと私は思ったんです。何回か事務所で話しをお聞きするうちに、本当にそんなんことがあったのかという、驚天動地の連続だった。それで、しばらく柴田さんの事務所へ通いましたが、「佐野くん、ぼくはゴルフ大会があるのでアメリカへ行く」ということで、聞き取りはしばらく中断したんです。
 ところが、フロリダでゴルフプレー中に柴田さんは亡くなってしまった。まあ、その報を聞いたときは、あーあれも聞いておけばよかった、これも聞いておけばよかったと、私は思いましたけれど、生前柴田さんが誰にもいわなかった話を唯一私にしてくれたことを誇りに思い、柴田さんが書き残してくれたもの、そして、奥様の柴田泰子さんがつくられた遺稿集などで補足も出来たし、不十分ではあるが、私は「巨怪伝」というかたちでいいものが書けたと思っています。いま、それから10年くらいの歳月が流れていますが、新しいメディアの誕生を得て、十数年前に僕が通った田町の事務所をここでこういうかたちで見るとは、まあ思いもよらなかった……なにかこう、非常に感慨深いものを感じています。
政策研究大学院というところがあります。歴史学者として大変有名な御厨 貴さん、伊藤 隆さん、近現代史の専門家です……これらの方たちが中心になっていらっしゃるのですが、御厨さんはいま、オーラルヒストリー研究会というのをやられています。ここで、日本人は伝記を残さない、記録を残さない民族だと言われていて、必ずしもそうだとは言い切れないのですけれど、まあ一般的にはそうかもしれません。ここで記録を残す運動をしていこうということで、オーラルヒストリー研究会が中曽根康弘から話を聞き取って評伝をつくる、あるいは渡辺恒雄から、後藤田正治から話を聞いて記録として残すという仕事を行っています。
昨年でしたか、このオーラルヒストリー研究会の御厨さんから、私は呼ばれました。聞きたいことがあると言われたんですね、その中の若手のグループから、あなたの聞き取り技術を聞きたい、あなたの取材方法を。特に戦後マスコミの化けモノ中の化けモノ、正力松太郎を私が扱っているということで、どうしてこういうことが構築できたのかというのが、主な主題でした。
で、私は、柴田秀利のことを話して、柴田秀利とお会いできたことが、そして彼の残した『戦後マスコミ回遊記』を読むことが、私の正力取材の最大の源泉であったと話したのです。
まあ、結局は千載一遇といいますか、その機会を逃すと、やはり永遠に歴史は闇から闇へと葬られてしまうのです。
宮本常一の言った言葉ですが、きょう私は基調講演でもこの言葉を申し上げました、「記憶に残ったものしか記録に残らない」という言葉。至言中の至言だと思います。
あらゆる形、あらゆる機会を捉えて、振り返れば我々は活字の発達……グーテンベルク以来継承してきたわけですけれど、いろいろなメディアの発達、また新しい時代を得て、こういう鮮明な画像で、しかも自分の好きなように、いわばこれは単なるみなさまが読者になるだけじゃないんです。参加することです。つまり自分の好きなようなバージョンで、この写真はもっと拡大したい、この人物は誰なんだというインタラクティブな情報になっていけば、この人物のことがそのときには分からなかったとしても、いま分かりましたよ、というような伝達スタイルがきっとできると思います。つまりこういうベーシックな原型があって、それにどんどん付加がつのっていく……で、付加をつのらせていくのは、やっぱり人間なんですね。つまり個人の素養であったり、堆積であったりなんですね、個々人の知識なんです、あるいは経験なんです。みなさまが試されている、ここの中からなにを読みとるか、つまり読者としても試されているということを私はこの電子出版を見て感じました。

よく考えてみてください。読者であり作者である、作者であり読者である……私たちはこういう存在です。こういう相互に行き来する存在にますます私たちは入ってきている時代に生きています。
きょう私はここで柴田秀利の『戦後マスコミ回遊記』を電子本としてあらためてみました。いろいろなことが頭を巡りました。私が書いた正力松太郎『巨怪伝』のことはもちろんです、あのときお会いした柴田さんの思い出、そしてここに納められた幾多の写真から触発される私が生きた戦後の情景、そのとき時代は確実に動いていた、テレビ導入にかかわった柴田秀利もそこに激しく活躍していたんです。あの汲めどもつきせぬ問題意識というものは、このテキストのはしばしからからきっと感じられるはずなんだ、たくさんのものがまだまだこの本、そしてこの電子出版には埋もれているんだということを、あらためて申し上げて私のはなしを終わりにしたいと思います。


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