著作権についてお話してみたいと思う。この『新潮文庫の100冊』には、文庫本百冊全文が収録されているわけだが、その中で著者の死後50年が経過している、いわゆる著作権切れの作品は、日本の作品67点中13点、海外の作品33点中27点ある。もっとも海外の作品については、翻訳者の著作権は全て生きている。

 著作権に対する姿勢は、出版、映画、音楽という業界ごとにかなり違うし、同じ出版の中でも、文芸と漫画や実用書とでは違う部分が多い。条件が違うので同列には比較できないが、強いて比べるなら、文芸の分野がいちばん著作者の立場が強いのではないだろうか。音楽業界には原盤譲渡という名の下による著作隣接権の「買い取り」が一般的な慣行となっている(だからこそオムニバス盤がよく出ている)し、映画業界では映画作りに資本を提供すれば、自動的に著作権が発生する。ところが出版界では、原稿料や印刷・製本経費を負担しても明文化された権利が得られるわけではないし、著作権は買い取るものではなく、あるフォーマットで複製・頒布する権利を許諾されているのにすぎない。今回のCD−ROMは、文庫本とは異なるフォーマットなのだから、全ての権利について許諾を求めなければならないわけだ。

 フォーマットについて説明するといっても、類似のタイトルはないし、著作権者のコンピュータについての知識もまちまちだ。また権利問題の中で一番話題となるのは複製についての問題だが、複製・加工できることがそもそもコンピュータの本質的な機能なのだから、いたずらに制限を付けるのもおもしろくないし、プロテクトしても100パーセント安全なわけではない。このようにわけのわからない申し出に対して、ほとんどの著作権者がご了承下さってことに対して深く感謝したい。権利処理の実際については多数の問題があるが、ご要望があればこの場でご報告をしていきたい。(つづく)

掲載日:1995.11.1
text(C)1995 Takuo Murase



著作権について その2

 日本における著作権には、大きく分けて「財産権としての著作権」と「人格権としての著作権」とがある。そして、「財産権」の中に、「複製権」「頒布権」「上演権」などがあり、「人格権」の中には「公表権」「氏名表示権」「同一性保持権」がある。「財産権」は著作者の死後50年間保護される。また「人格権」は著作者に専属している権利であるが、著作権法上は、著作者の死後も存続する。その保護期間は「財産権」のそれとほぼ同期間である。

 「財産権としての著作権」の根本をなす権利は「複製権」である。これが文字通り copyright なわけだが、CD−ROMなどのデジタル出版物において、旧来のメディアと最も違うところは、簡単に原本と同一物を複製できてしまうところにあると考えられる。「複製権」は著作権者が独占排他的に持つ権利であり、出版者は限定されたメディアでの複製・頒布を、またユーザーは私的利用に限定された複製や一部の引用を許可されているにすぎない。もちろん著作権法自体に罰則規定はなく、著作権者の同意があれば特に従うこともない。しかし、今回の『新潮文庫の100冊』は、著作権者が100人を超え、その意見や著作権についての意識がバラバラであるという事情から、著作権法の規定にできるかぎり沿った形で権利の保護が行えるように配慮した。

 つまり、何段階かのプロテクトにより、ユーザーはCD−ROMをシステムに組み込んだ環境でのみ、『新潮文庫の100冊』を再生でき、一部のブックをハードディスクにコピーした状態では再生できないようにした。また、テキストファイル自体も暗号化処理を行い、ブラウザを通してのみ読むことができ、ブラウザ上の1ページの範囲でのみカット・アンド・ペーストができるようにしてある。この結果多くの読者の方々から、「コンピュータで読む本としては不適当」といったご意見をいただいた。これはまことにごもっともなことであり、制作者サイドもほぼ同じ意見である。ただ権利者がいる以上、権利者の意見は絶対的なものであり、その権利者の意識を変えていくには、具体的な成果と時間の積み重ねが必要であるということも、認識していただければと思う。また、何冊かは著作権切れのものが収録されているが、この『新潮文庫の100冊』はエキスパンドブック初のハイブリッドブックとして、制作環境を育てながらの過渡的な状況下での制作となり、プロテクト条件の混在を避けたので、一律のプロテクトとなった。次回作以降では、著作権切れの作品については、できるだけオープンにしていくつもりでいる。(つづく)

掲載日:1996.02.17
text(C)1996 Takuo Murase



●企画意図
●フォントについて
●100冊のタイトルリスト
●新潮社報道資料